2020年11月14日

表現の自由について

11月14日(土)
村田孝高です。

今日は、亡き父親の四十九日の法要があり、また広島に来ています。
理代子さんも一緒に来る予定でしたが、このところ、耳鳴りがしてあまり体調がよくないので、私一人で来ました。
2020.11.14四十九日

2020.11.14兄ちゃんとお墓の前で

親父らしく、墓石が重すぎて、兄と二人がかりでも動かすことが出来ず、納骨はまたいずれ日を改めてということになりました。
あれだけ色々と役所や銀行を駆け回って、相続の手続きなどやったつもりなのに、まだまだやることがあって、人間一人が人生を終えるというのは本当に大変なことだと実感します。
それだけ、人間一人が生きているというのは多くのものを抱え込むということです。

写真も撮っている暇がないので、この間スーパーで見つけた『長野パープル』という、新品種のブドウの写真などお届けします。
2020.1028.長野のブドウ
シャインマスカットのように皮ごと食べられる品種で、漸く、農業試験所から一般栽培の許可が下りたものです。
長野パープルが固有名詞なので、静岡で栽培されれば、「静岡長野パープル」です。
まあまあの味です。

この間、去年の『一冊の本』という小冊子に、あの爆笑問題の太田光さんの文章を見つけました。
その中の一部をご紹介させて頂きます。
フランスで起きた風刺新聞にまつわるテロ事件のことです。
『誰かにとってはただの風刺でも、それを描かれたら死んでしまうという人々もいるのだ。・・・誰にでも、どうしても守りたいものがある。汚してほしくないものがある。・・・ムスリムの人々にとってそれは、言葉で説明することも絵にすることも、偶像化することも許されない自らの命より大切な守るべきものだ。・・・
他人をも含めた命を懸けて「表現の自由」を守ろうとする人が、命がけで自分の神を守ろうとする人をなぜ茶化せるのか?』

これは、まさしく私と理代子さんがいつも話し合っていることだったので、ひどく共感しました。
例えば熱心なクリスチャンが、キリストを茶化されたら、そしてそれが「表現の自由」だと言われたら、その信仰によって生きている人々はどんな思いがするだろう。
「風刺が文化だ」という前に、人間には、決して踏み込んで茶化してはいけない聖域というものがあるはずだと、我々はいつも考えています。

昨日までとは打って変わって、今日は穏やかな日差しですね。
しかしコロナ感染は増え続けています。
周囲にも、少しずつコロナ鬱とでも言うべき状態に陥っている人たちもいます。
何とか励ましあって乗り越えたいです。


posted by riyoko at 14:45| Comment(0) | 日記
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